22歳、発達障害者。

発達障害者の日々のつぶやき。

私が発達障害と診断されるまで

どうも😀

今日は私が発達障害と診断されるまでのプロセスについて書いてみたいと思います。

発達障害の徴候は、なんと3歳児検診の時からあったとか。検査を担当した職員さんに、人見知りが激し過ぎる、このまま幼稚園に入ったら大変なことになると言われたそうです。なんか初対面の人を見た時の泣き方が異常だったとか😅

その時から人の輪に入れなかったようです。

それからどうなったかというと、自分と似たような子どもが通う保育園に通うことになりました。

障害児通園施設と言うそうです。

ただその頃は発達障害とかまだ世の中には広まってなかったので、診断は免れました。

一年間でだいぶマシになったので4歳からは通常の幼稚園に通いました。

友達はその頃からいなかったですが…。

その後、慢性炎症性脱髄性多発神経炎という難病が見つかりまして、結局幼稚園にはほとんど行けず入院生活を送っていました。

小学校は知的障害がないことや持病が日常生活に支障がないぐらいまで回復したことから普通学級に入学しました。しかし、小学校2年の新任の担任の先生が手に負えないと教育センターに行かせました。

何が手に負えなかったのかは不明です💦

その教育センターっていうところでプレイセラピーを受けていました。後で聞いた話、教育センターでそういうことをやるのは発達障害だかららしいのですが、そこでも診断はされませんでした。

小学校3年ぐらいからはいじめが始まりました。

親は友達ができないこともいじめられることも私が悪いと決め付けて、責めました。

どうして、いつもいつも、あなたはそんなのなの!?

ってね。虐待もありました。

学校でいじめられて、家では虐待されて、先生も見て見ぬふりで。私には居場所がありませんでした。

教育センターだってなんのために行かされてるのかわかりませんでした。

まるで親がやらせたい習い事に嫌々行かされているような子どもでした。

だから4年生ぐらいからは生活が荒れていきました。

爪を噛んだり、髪の毛を抜いたり、同級生の物を盗んだり。自分や他人をたくさん傷つけました。

でもどの行動にも共通しているのは、特にその行為自体に意味がなかったということです。

確かに私の親は物を何でも買ってくれる親ではありませんでしたが、必要最低限のものは与えてくれていましたし、盗んだものもすごく欲しかったわけじゃない。

それでもなぜか止められなかった。

そんなことが続いてしまい、難病の方でお世話になっていた医師からついに発達障害の疑いがあるので心療内科を紹介されました。

そしてその心療内科発達障害と診断されました。

それが小学5年の時かな。

でもその後の方が大変でした。

いじめや虐待による二次障害でうつや睡眠障害があったのでたくさん薬を飲まされました。

今からすれば小児にはありえない量でした。

でも今みたいに児童精神科とかもなくて、医師や親に言われるまま薬を飲んでいました。

でも副作用も本当に辛くて、正直病院に通い始める前より辛かった。

親は高いお金を払って心療内科に通わせているのに良くならないことにイライラしてるし、私は私で副作用が辛くて前より努力できなくなりました。

そんな私を周りは努力不足と言いました。

親には病気の子はいらない、死んでも悲しくないと言われました。

だから小学校5.6年の時から死にたいって思っていました。自殺未遂もしました。でも親は止めてくれなくて。死にたいなら死ねばいいとか自分も一緒に死ぬとか言って無理心中みたいになったこともあって。

薬の量も増えてしまいました。

今なら入院させられてますね、たぶん。

教育センターも小学校を卒業する時にやめる話になって、今後のことを考えた時に心療内科をやめることになりました。^_^

毎回の通院やカウンセリングでお金かかってたし、待ち時間は長いし、何より良くなってなかったので。

本当にあのままあの病院に通ってたらどうなってたか…

その後どうなったかというと中学校からは通級指導教室とスクールカウンセラーにバトンタッチされることになりました。

その内容は次回で。

ではまた🤚