22歳、発達障害者。

発達障害者の日々のつぶやき。

毒親と発達障害の私。

皆さんこんにちは😃

昨日の送別会には結局行かせてもらえませんでした。

打ち上げとか飲み会とか今まで一度も参加させてもらえず、その代償に仲間を失ってきました。

私は昨日の送別会に行かなかったことで2年間付き合ってきた仲間を失いました。

私が来なかったことでさぞ怒っていることでしょう。

でも家庭環境のことは話すつもりありません。仲間の話を聞いている限りあちらの家庭は至って普通で、こちら側になることはないんです。わからない人に話したって意味がない。今となってはもう会わないと思います。

そうやって自分から人間関係を切り捨ててきました。

小学校の頃から親が決めた子としか付き合わせてもらえず、仲良くしてくれそうな子がいても親がダメと言ったらわざと嫌われるように仕向けました。

親の命令は恐ろしいくらいの絶対命令でした。

家では母親が絶対的な教祖で、私と父親が奴隷でした。

父親は働いて養うことを要求されて、でもただそれだけでした。だから父親は休みの日も帰らなくなりました。

私は子どもであることを理由に母親の思い通りに育つことが要求されました。自分が生きていくためにはどんな理不尽にも耐えてひたすら母親の掟を守り続けました。

その代わりに自分を思ってくれる仲間や夢中になってやりたかったことを全て我慢しました。その結果、親の操り人形になって友達も趣味もない子どもになりました。

もちろん反逆したこともあります。

小学校高学年くらいには自分だけ服や友達が選べないことや禁止が多すぎることに疑問を感じていました。

だけど母親は時には体罰を使って私を制圧しました。

本当に殺されそうになったので、先生や児童相談所にも相談しました。だけど母親には逃げるなら復讐してやる、絶対に連れ戻して一生外に出れないようにしてやると言われて相談できなくなってしまいました。外から見たら極めて良い母親だったので、結局誰も助けてくれませんでした。

もうその頃から、母親を殺すか自分が殺されるか、自分で死ぬか一緒に死ぬかの4択しか離れる選択肢がないんだと思いました。

どっちかもしくは両方が死ぬしかないんだって。

だって生きて逃げたところで相手は追いかけてくるんだから。

だからずっと死ぬ機会をうかがってきました。

若くして自殺をしたら自分は責められない。

だけど親を殺したら自分は責められてしまう。どんな事情があっても。

生きる権利があるなら死ぬ権利だってあるはず。

そう思ってました。

だけど私は親のせいで失ったものばかり。

普通の親から生まれていたら発達障害があっても友達も趣味もできてたのかな。子どもの進学や就職、自立を喜んでくれてたのかな、思わずにはいられません。

発達障害って今は先天的な脳の病気と言われていますが、私は十分後天的な環境の部分が大きいと思います。全てが親のせいというわけではありません。学校や職場、環境は常に変わるものです。でも私はいつもどこでもありのままの自分でいることができなかった。ありのままの私を受け入れてくれる人がいなかった。それは母親じゃなくてもいいと思う。父親でも祖父母でも兄弟でも誰でもいいから一人でも私という人間を認めてくれたら、私の人生は変わっていただろうか。

ただ私はもう人というものを信じられない。

信じたくない。